郷愁

さようなら、もうお目にかかることもありません。

24歳になった

先日、24歳になった。最後の二十代前半の歳だ。
文字にしてないと、24歳の私が何を思っていたか全然わからなくなる気がするので、文字にしたいと思う。

ちなみに、22歳から23の時は他人が進められなかったプロジェクトを任されて、1人暖房の切れたオフィスに残って寒い思いをしながら仕事をしていた。
そして、そのプロジェクトの区切りの日付を私の誕生日に自分で設定した。結果的に問題なくそのプロジェクトは着地し、充実感をもって23歳を迎えたことだけ覚えている。

最近強く思うことは、今の職場はチョロいということだ。
前職でも同じようなことを思ったので、ある程度自分が成長してまわりが大したことなく思えてくると途端に周りに厳しくなるのだな、と感じる。
ただ、今のフィールドからはもう学ぶことはないという段階に来たのだと思うし、そこまで成長できることは良いことだと思うので自分でも認めたい。よく頑張っている。
もちろん、今の職場で「まったく」学ぶことがないかというと、厳密に言うと違うとは思う。
後輩が出来て指導する場面も多いし、後輩指導時に完璧にこなせているかというと自分に落ち度はあると感じている。
ただ、ずっと始まりの村でスライムを狩り続けても効率的では無いように、レベルアップに効率が良い経験値が得られるフィールドでなくなった、という感覚がある。

関係性の持続可能性について相変わらず悩んでいる

初めは凄いと思い尊敬していた人のことが、時間がたつにつれ尊敬できなくなることはあるのではないだろうか
それは自分が成長したからであったり尊敬していた人の尊敬できない部分を認識してしまったり、いろいろ理由はあると思うが、私は何度も「尊敬・信頼していた人を徐々に尊敬・信頼できなくなる」ということを経験している。
継続的に尊敬・信頼している人は身近には一人もいない状況である。自分の問題なのではないかと感じている。
だがどうしたら改善できるのか、他人を尊敬し続けることが出来るのか、信頼し続けることが出来るのか、よくわからずにいる。

そして感じるのは、自分も自分の美点ばかりを周囲に提供できているのか、という内省だ。
たとえば、会社の趣味が同じ人と話していると楽しくなってしまって、いつの間にかいつも馬鹿にしていたような言動や態度をとってしまっていることがある。
常に自身の規定した自分でしか他人と接しないか、常にありのままの自分で他人と接することが出来るように自己研鑽に励むかのどちらかが必要なのだろうと感じる。

先入観で人を規定することとレッテルを貼ることをやめたい

この人は凄い人、この人は馬鹿、みたいな先入観で人を見てしまっていると感じるときがある。
レッテルを貼ってしまうと、馬鹿だと思っている人が何をやっても(馬鹿なことをしている)と感じてしまうと思うし、物事をきちんと見れない愚かさを反省するとともに、自分の精神になにもプラスがないからやめたい。
一緒の職場で働いている人にレッテルを貼ってやることなすことにイライラするのは、とてもばかばかしい。

この人は敵、この人は味方、という判断もやめたい。敵という属性の人が私に害をなし、味方という属性の人が私に常に味方をしてくれるという訳ではないということを常に意識したい。
敵も味方もない世界に生きたい。

今後気を付けたいこと

以下の二点に気を付けたい - 良い人間でありたい - 人を気軽に拾わない

「良い人間でなければ迫害される」とか「良い人間だから認められる」とかそういう判断ではなく、自己実現的に「良い人間であると自分が思える人の形をできるだけ保ちたい」ということである。
自分が良い人間であると確認せず、常に意識し続けたい。

人を拾う、人とかかわるというのに慎重になりたい。
人は変わり続ける。常に変わり続け、自分の知らないところで予想もしないような変化をする。それは必ずしも歓迎できないこともあると思う。
なので、動物を飼うことをきめるときのように、慎重にすべきだと感じる。

過去に行ったアフタヌーンティーの感想まとめ2

長楽館(京都)

京都祇園、東山、円山公園のレトロカフェ | 長楽館

写真は2018-08-10のもの f:id:worlc:20191014000539j:plain

  • お菓子美味しい
  • スコーンは固めでバターが強めで美味しい
  • ジャムもクロテッドクリームも好みのものだった
  • 茶葉が越されて出てくる
  • ポットとティーカップはリクエストしたら変えてくれる
  • 内装が良い
  • 店員さんのホスピタリティの高さが素晴らしい

リッツカールトン東京

写真は2019-11-04のもの f:id:worlc:20191014001041j:plainf:id:worlc:20191014001044j:plain

  • 吹き抜けで天井がやたら高い。晴れた日は良さそうだが、曇っているとやや暗い
  • お茶はタイミングタイミングでサーブされるのだが、時によっては渋かったり、薄かったりした。残念
  • お菓子はそれなり
  • さすがのリッツ。セイヴォリーはかなり美味しい
  • 値段の割に食器が質素

コンラッド東京

写真は2019-03-10のもの f:id:worlc:20191014001548j:plain

  • 茶葉は越されて出てくる
  • お茶も美味しい
  • お菓子はそれなり。上段一番左以外は、あまり手をかけていない印象
  • セイヴォリーがかなり手が込んでおり、美味しい
  • 窓際は見晴らしがよくて素敵だった
  • 予約時に用途欄に誕生日祝いだと添えたら、サービスでプレートを付けてくれた。優しい気づかい

ストリングスホテル東京インターコンチネンタル

写真は2019-04-07のもの f:id:worlc:20191014002203j:plain f:id:worlc:20191014002205j:plain

  • 茶葉は越されて出てくる
  • 記憶があいまいだが、たしかポットを開けたあと茶葉が選びなおせたような気がする
  • 内装がとてもオシャレ。照明のかんじもちょうどよい明るさ
  • お茶はそれなり
  • お菓子もそれなり(期間限定ものかつ、イチゴが売りのものなので仕方がない面もある)
  • セイヴォリーはなかなか趣向を凝らしてあり、タコとイチゴのピンチョスや、生ハムとイチゴの天ぷらなど、刺激的だったし美味しかった

過去に行ったアフタヌーンティーの感想まとめ

ANAインターコンチネンタル

椿山荘

  • 紅茶が美味しい。香りもいい
  • スコーンも美味しい
  • クロテッドクリームお代わりできた
  • 駅から遠い
  • 机がガタつくので席を変えてくれと伝えたら、テーブルの上に紅茶があるのにおもむろにテーブルを動かし始めた。店員の質が少し疑問

フォートナム&メイソン(三越日本橋

  • 紅茶そこそこ
  • スコーンもそこそこ
  • 接客もそこそこ
  • 騒がしいのであまりくつろげない

ラデュレ(銀座)

2019-05-31の写真添付f:id:worlc:20191013235337j:plain

  • 紅茶が漉されて出てくる
  • サンドイッチ、なかなか美味しい(写真の通り、特別感は少ないが)
  • カロン美味しい(アフタヌーンティーじゃなくても買って帰れるが)
  • 紅茶も美味しい(テ・マリーアントワネットが好き。これも普通に買って帰れるが)
  • ポットはちょっと熱い

幸福について考えた

幸福であり続けたいのだが

幸福のかたちは一つだと思う。自分の望みがかなえられることだ。
自分の望みをかなえる方法は二つあると思う。一つは、自分が周りを支配することだ。二つめは、自分の望みを叶えてくれる人間に従うことだ。
私は幸福でありたい。幸福でありづづける可能性を高めるため、自分が周りをできるだけ支配することを望んで生きてきた。自分の望みを誰か他人がかなえてくれることを期待が出来ない性格になってしまったためだ。
だが、あまりにも他人が思い通りにならないことが分かってきてしまった。ぼんやりとだが、他人を支配することも、他人に従うのも、他人が自分の思い通りになることを信じられていないと難しいのであろうことが分かったのだ。
自分の思い通りに他人が行動しないことを是認して、この社会で幸福に暮らすことは可能なのだろうか。幸福の形がうまく思い描けない

銀河英雄伝説 文庫本7巻まで読んだ感想

ラインハルトもヤンも、信念のある人間だと思う。何かを信じ続けられることは素晴らしいことだ。何かを信じ続けることが出来れば、そこには夢があり、希望があり、野望があるのだろうと思う。
幸福のかたちのひとつとして、何かを信じ続けることという条件があるのかもしれない。

他人を自分の中でどう折り合いをつけるのかという悩み

生きることが苦手

生きることが苦手。その一言に尽きる。生きる目的にお金がかかりすぎるし、できるだけ美しい人間でいたい理想と現実の自分とのギャップを受け入れることができない。どう生きたら幸せになれるのかのビジョンも持てない。

他人に期待しないということ

よく他人に腹を立てる。自分の思い通りに行動してくれない他人に腹を立てる。
そういう気持ちについて考えていると、自分のなかで「他人に期待するからでは」みたいな気持ちが生まれるのだが、他人に期待しないというのは現代のシステム的に可能なのだろうかとも思う。お金を払ったら商品が手に入ることを期待するし、働いていたら仕事が他人に頼んだ通りに遂行されることを期待するのが当然ではないのか。
もちろん、言葉にしていないことを察してくれと期待するのは成功率が低くなりがちだしよくないことだと思うが、言語の上で了承されたものや金銭のやり取りが発生しているものは遂行されて当然ではないのか。
人は自分の利益を最大化するものだし、了承しておいて遂行しないのが個人の利益の最大化だということも理解できる。ただ、それを前提としていたら現代のシステムが成り立たないではないか。だが現実的に他人に期待していても裏切られることはよくあることである。どう考えても人が嫌いになるばかりである。みんなはどう折り合いをつけているのだろう。

良いところだけの関係

できるだけ他人の良いところだけを見ていたい。自分は音楽や芸術が好きなのだけど、まさにそれなど他人の良いところだけを切り取った形であると思っている。そういうような形での他人とのかかわりあいをしたい。仕事の関係でもそうである。自分はできるだけ仕事での良い面だけを会社で提供したいと願っているし、他人もそうであってほしい。
いいところがない人間はほとんどいないと思っている。生きてるだけでほとんどの人は労働力として存在が可能だし、献血とかもできる。他人が嫌になってしまうことのほとんどの理由は、良いところを上回る悪いところを見せられるからだ。その人から得られる良いところより、悪いところを上回ると人のことが嫌になってしまう。できるだけ悪いところを見せないでくれ。自分も頑張る。

故郷をもたないということ

かえるところ

昔は文章を定期的に書いていた。
小学生低学年のときは、自分の気持ちを打ち明ける相手がいなかったので、日記をつけていた。
それが小学校3年か4年のころ、パソコンが買い与えられたことをきっかけにブログになった。
確か、高校3年くらいまでは定期的に更新していたと思う。

高校卒業後は専門学校に入ったころからTwitterが主な文章表現の場になった。
そのせいか、自分がどんどん「文章」というものを書けなくなっていることには始めた当初から気付いていたが、Twitterをやめなかった。
文章構成を考えず、短文で散漫に、思いつくままに自分の気持ちを吐き出せることが心地よかった。

だが今になって、思ったのだ。Twitterは自分の気持ちを記すのに適した場所ではないと。
そこでブログにかえることにした。それが本ブログの開設理由である。

故郷をもたないということ

天涯孤独であるとか、出生について国籍や人種的な事情があるというわけではないが、「故郷」といえるものが存在しない。
帰りたいと思う土地や、コミュニティというものが存在しないのである。
だが、不思議なことに、たまに猛烈に「かえりたい」と思う。スラヴ叙事詩を見たとき、ショパンノクターン11番を聞いたとき、「かえりたい」と思うのだ。
でも、かえるところなど、どこにもないのである。「かえりたい」という感情は行き場もなく漂い、消えるほかない。

卵が先か鶏が先か

言葉というものは不思議なもので、たびたび、ある概念をあらわす言葉を先に習い、その概念は実感したことがないということがある。
自分の場合は「憎しみ」である。
何がきっかけかは忘れたが、あるとき「これが、まさに、憎しみの感情なのだ」と深く納得したことがある。
発生した感情が、いままで空っぽだった概念にぴったりはまる瞬間。そういうときに、言葉とは心底面白いなあと思う。